かっては引札(ひきふだ)といって木版すりで印刷されたチラシがあった。
この引札の中で明治15年に制作されたものが当店に残っている。
中国では今から5,000年前神農氏が現れ、1日に72の毒にあたって苦しみ、
薬をつくったと伝えられている。
その後、紀元500年頃、陶弘景は神農の薬をあつめて「本草経集注」を著した。
その後、中国の李時珍は1579年「本草綱目」 52巻を完成させた。この本草綱目は
日本の薬学の原典となった。加賀藩ではこの本草綱目の研究はされていた。
特に五代綱紀公は歴代の藩主のなかでもとりわけ熱心で、本草学者を加賀藩に招き研究
させるとともに、本草に関する書物を書かせた。
一方、全国に薬の処方を探索させるとともに、蒐集し、調査、研究を行い、
場合によっては薬草の栽培を行い、治療薬の試験製造を行った。
招かれた学者の一人稲生若水は加賀の本草学の基礎を築いたと言われている。
彼は藩内の和薬の探索はもちろん、数多くの秘薬、薬方を全国から集め何かいい薬はないかと
研究を重ねた。綱紀公はまた、前田家に秘蔵し門外不出だった薬を藩内の薬舗である
福久屋、宮竹屋、中屋に命じ、製造させた。
それが「紫雪」「烏犀円」「耆婆万病円」なのである。
製造は厳密をきわめ、藩医堀部養叔に監督させ作らせたと伝えられている。
その当時、薬舗では黄連、黄柏、熊胆などを取り扱うかたわら諸国の売薬も取り扱い、
それぞれ藩内の各店では自慢の自家製剤を持ち競い合って商いをしていたといわれている。
当時、藩内には200軒位の薬舗があり一軒あたり3〜4種類の薬を作っていたとしても
600〜800種の薬があることになり、その他、諸国の売薬、薬種を合わせると
一軒あたり扱う薬の数は2000〜3000アイテムにも達しただろうと推測される。
又、綱紀公は稲生若水に命じ、本草学書である「庶物類纂」1000巻を編集させた。
そのほか「百工比照」では百般の工芸の蒐集も行われている。
加越能三州の主である綱紀公は藩主であると同時にすぐれた科学者でもあったようだ。
1724年82歳で公は没するが、公が亡くなってから明らかになったのであるが、
一挙に藩財政が困窮してきたといわれるほどだった。
この時期、元禄時代をはさんでの数十年間は江戸時代でも最も豊かな時代だった。
百万石の財を傾けて行われた数々の文化的、科学的な事績は人々をして
「加賀は天下の書府」と言わしめたほどである。
金沢では1月から2月にかけてよく雪が降る。
来る日も来る日も繰り返し降ってくる雪の中で人々は春の訪れを待ち焦がれる。
空は鉛色で日本海からの強い風が吹いてくる。そんな雪と風がやんで、
夕焼けが近くの雪の降り積もった山々を照らす事がある。
空は茜色に、山肌は紫色にうすく染まったりする。
そんな季節を待って「紫雪」は作られる。
1月の寒に入るのを待って準備をしてゆく。もともとこの処方は前田家五代藩主綱紀公
(1635〜1724年)が藩内の薬種商に製造を命じる形で作らせたものである。
当時は藩の典医の監督のもとで製造が行われた。
先ず、大なべに水を7分目位張り、下から火力の強い炭火をおこし煮沸させる。
あらかじめ用意しておいた黄金100両をお湯にいれる。
石薬を煎じ、動物薬煎じる。
出来上がった紫雪の中間品は木製の器に入れ目張りをして、一晩保管する。
翌朝、この紫雪の元を取り出し、加工し完成品とする
あの雪山に輝く夕日を思い出しながら、朱をいれていく。
仕上げた紫雪はさらに篩いにかけ、最後の仕上げにかかる。
暖房はされない。気温は0℃位でしょう。
この「寒」の季節をはずれて製造すると製品は固まって、紫雪にならない。
さらさらと紫の雪のような薬、それが「紫雪」なのである。
この引札の中で明治15年に制作されたものが当店に残っている。
中国では今から5,000年前神農氏が現れ、1日に72の毒にあたって苦しみ、
薬をつくったと伝えられている。
その後、紀元500年頃、陶弘景は神農の薬をあつめて「本草経集注」を著した。
その後、中国の李時珍は1579年「本草綱目」 52巻を完成させた。この本草綱目は
日本の薬学の原典となった。加賀藩ではこの本草綱目の研究はされていた。
特に五代綱紀公は歴代の藩主のなかでもとりわけ熱心で、本草学者を加賀藩に招き研究
させるとともに、本草に関する書物を書かせた。
一方、全国に薬の処方を探索させるとともに、蒐集し、調査、研究を行い、
場合によっては薬草の栽培を行い、治療薬の試験製造を行った。
招かれた学者の一人稲生若水は加賀の本草学の基礎を築いたと言われている。
彼は藩内の和薬の探索はもちろん、数多くの秘薬、薬方を全国から集め何かいい薬はないかと
研究を重ねた。綱紀公はまた、前田家に秘蔵し門外不出だった薬を藩内の薬舗である
福久屋、宮竹屋、中屋に命じ、製造させた。
それが「紫雪」「烏犀円」「耆婆万病円」なのである。
製造は厳密をきわめ、藩医堀部養叔に監督させ作らせたと伝えられている。
その当時、薬舗では黄連、黄柏、熊胆などを取り扱うかたわら諸国の売薬も取り扱い、
それぞれ藩内の各店では自慢の自家製剤を持ち競い合って商いをしていたといわれている。
当時、藩内には200軒位の薬舗があり一軒あたり3〜4種類の薬を作っていたとしても
600〜800種の薬があることになり、その他、諸国の売薬、薬種を合わせると
一軒あたり扱う薬の数は2000〜3000アイテムにも達しただろうと推測される。
又、綱紀公は稲生若水に命じ、本草学書である「庶物類纂」1000巻を編集させた。
そのほか「百工比照」では百般の工芸の蒐集も行われている。
加越能三州の主である綱紀公は藩主であると同時にすぐれた科学者でもあったようだ。
1724年82歳で公は没するが、公が亡くなってから明らかになったのであるが、
一挙に藩財政が困窮してきたといわれるほどだった。
この時期、元禄時代をはさんでの数十年間は江戸時代でも最も豊かな時代だった。
百万石の財を傾けて行われた数々の文化的、科学的な事績は人々をして
「加賀は天下の書府」と言わしめたほどである。
金沢では1月から2月にかけてよく雪が降る。
来る日も来る日も繰り返し降ってくる雪の中で人々は春の訪れを待ち焦がれる。
空は鉛色で日本海からの強い風が吹いてくる。そんな雪と風がやんで、
夕焼けが近くの雪の降り積もった山々を照らす事がある。
空は茜色に、山肌は紫色にうすく染まったりする。
そんな季節を待って「紫雪」は作られる。
1月の寒に入るのを待って準備をしてゆく。もともとこの処方は前田家五代藩主綱紀公
(1635〜1724年)が藩内の薬種商に製造を命じる形で作らせたものである。
当時は藩の典医の監督のもとで製造が行われた。
先ず、大なべに水を7分目位張り、下から火力の強い炭火をおこし煮沸させる。
あらかじめ用意しておいた黄金100両をお湯にいれる。
石薬を煎じ、動物薬煎じる。
出来上がった紫雪の中間品は木製の器に入れ目張りをして、一晩保管する。
翌朝、この紫雪の元を取り出し、加工し完成品とする
あの雪山に輝く夕日を思い出しながら、朱をいれていく。
仕上げた紫雪はさらに篩いにかけ、最後の仕上げにかかる。
暖房はされない。気温は0℃位でしょう。
この「寒」の季節をはずれて製造すると製品は固まって、紫雪にならない。
さらさらと紫の雪のような薬、それが「紫雪」なのである。