鎌倉鶴丘八幡宮を訪ねた時は春の日が降り注ぐ穏やかな日和でした。長い参道を歩きながら、健康で静かで穏やかな日々を送れるよう祈り続けた。
鶴丘八幡宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりで、その後、源氏再興の旗揚げをした源頼朝公は、鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷した。
大勢の参拝客だったが、人混みをかき分けて無事本殿の参拝を済ませた。参道わきの商店街は人でいっぱいだったが、商店を覗きながら江ノ島電鉄鎌倉駅へと急いだ。
今日の目的はあの小田原の外郎本舗を訪ねることだった。藤沢でJR東海道線に乗り換え小田原に着いたのは昼を少し回っていた。
早速外郎本舗を訪ねてみようと思ったが、まず小田原城を先に見物することにした。
小田原城は堅固な城として知られあの上杉謙信公でさえ落とせなかったという。城構えは宏大で勇壮、難攻不落を思わせるものでした。
城からでて少し歩くと外郎本舗へ辿り着くことができた。
大通りに面して四囲を圧するお城作りの店舗は四民平等になったとはいえ、商人が営む店舗としてはいかがなものかと思うほど巨大なものでした。
あらためて財力のみで権威を象徴できるのかどうか考えさせられることでした。
江戸時代の薬(外郎・透頂香(ういろうとうちんこう))は享徳(1454年)既に販売されている最古の売薬といわれる。
現在まで残ったのには幾つかの理由が考えられる。
ひとつには14世紀に来日した唐人医師・外郎の作った薬であること。
二つには主剤となる阿仙薬が清涼・爽快感があること。
三つにはその薬を売っていた外郎家が、曲折があっても現存し透頂香を売り続けていること。
四つには各時代の当主が、その時代に合致した商法と努力で成功してきたこと。
などがあげられる。
ハーブのような清涼感をもたらし、心理的な効果もある。
店内ではクスリよりもお菓子を買うお客様が多いように見受けられた。
しばらく店内を見学して外へ出た。
小田原の人たちの生活の中へは溶け込んでいるのかもしれないが、県外者のものにとっては何かしら不快感が残る感じでした。お客としてはあの店舗を作るのに儲けられたというか損したという気分が心の底に沈殿した。
帰りは富士山でも見て気分を一新するか。
鶴丘八幡宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりで、その後、源氏再興の旗揚げをした源頼朝公は、鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷した。
大勢の参拝客だったが、人混みをかき分けて無事本殿の参拝を済ませた。参道わきの商店街は人でいっぱいだったが、商店を覗きながら江ノ島電鉄鎌倉駅へと急いだ。
今日の目的はあの小田原の外郎本舗を訪ねることだった。藤沢でJR東海道線に乗り換え小田原に着いたのは昼を少し回っていた。
早速外郎本舗を訪ねてみようと思ったが、まず小田原城を先に見物することにした。
小田原城は堅固な城として知られあの上杉謙信公でさえ落とせなかったという。城構えは宏大で勇壮、難攻不落を思わせるものでした。
城からでて少し歩くと外郎本舗へ辿り着くことができた。
大通りに面して四囲を圧するお城作りの店舗は四民平等になったとはいえ、商人が営む店舗としてはいかがなものかと思うほど巨大なものでした。
あらためて財力のみで権威を象徴できるのかどうか考えさせられることでした。
江戸時代の薬(外郎・透頂香(ういろうとうちんこう))は享徳(1454年)既に販売されている最古の売薬といわれる。
現在まで残ったのには幾つかの理由が考えられる。
ひとつには14世紀に来日した唐人医師・外郎の作った薬であること。
二つには主剤となる阿仙薬が清涼・爽快感があること。
三つにはその薬を売っていた外郎家が、曲折があっても現存し透頂香を売り続けていること。
四つには各時代の当主が、その時代に合致した商法と努力で成功してきたこと。
などがあげられる。
ハーブのような清涼感をもたらし、心理的な効果もある。
店内ではクスリよりもお菓子を買うお客様が多いように見受けられた。
しばらく店内を見学して外へ出た。
小田原の人たちの生活の中へは溶け込んでいるのかもしれないが、県外者のものにとっては何かしら不快感が残る感じでした。お客としてはあの店舗を作るのに儲けられたというか損したという気分が心の底に沈殿した。
帰りは富士山でも見て気分を一新するか。