代々伝えられてきた中屋家の由緒帳を見てみると、
「生国は山城の者にて姓は源氏伊東彦左衛門祐久と称し浪人なり、実は源家譜代の
臣伊東祐親の後裔にして故あって浪人となり代々山城の国に居住。
天文年中当国へ転任し河北郡戸室山の麓田原村中山邊に所司となり罷在、その後
金澤南町へ居を移し天正二年五月一五日行年七十八歳にして病死仕候。」
と記されている。
天正二年は西暦1574年である。
そこで、令和5年1月静岡県伊東市へ出張し伊東祐親について調べてみる事にした。
金沢を朝早くに発ち、米原を経由して熱海に着いた。伊豆急下田方面行「踊子号」に乗り換え、
伊東市には午後2時頃に到着することができた。
伊東市は海抜3メートル位で相模灘に面した海沿いの町である。遠くには、伊豆大島も茫洋として
見ることができる。あくまでも太陽はさんさんとふりそそぎ南国の趣である。
ハーフコートで薄着をして行ったが、それでも暑さを感じるくらいだ。
伊東市役所は小高い山の上にある。駅から少し歩いて東海館という地元の施設を見学した。
ここは伊東で活躍した偉人達を紹介している旅館である。
ここはそそくさと見学し、市役所の隣にある伊東祐親の騎馬像を目指した。
伊東駅から歩いて30分くらいかかった。山登りの感じで大変だった。
多分津波の影響などを考慮して高台に市役所を作らざるをえなかったものと思われる。
伊東祐親は1180年頃活躍した武将で、伊東の豪族であった。娘たちを有力御家人達に
嫁がせ閨閥を作っている。しかし、もともとは親平家で頼朝達源氏とはそりが合わなかった。
平家に追放され流人の頼朝の世話をまかされたのだが、逆に深く入り込まれて閨閥を乗っ取られた
ようである。したがって、鎌倉殿の13人にも入れなかった。
鎌倉幕府が成立してからは、各地の負け戦で子孫は落ち武者となって方々を流浪した。
北陸の戦いでも敗れた。なかには、尾張伊東氏、備中岡田の伊東長実となった武将もいたが、
多くは当家の先祖のように町人となり市井に埋没した。
伊東市役所から東小学校のフェンス沿いにしばらく歩いて行くと、伊東祐親の墓を探し
あてることができた。民家と民家に挟まれた十坪位のところにひっそりと建っていた。
しかし、今の天皇陛下が皇太子殿下浩宮様のころ訪れた碑があるのにはびっくりした。
気候はあくまでも温暖で日が当たると、幸せを感じるくらいである。
北陸とは大違いだ。墓所にも陰鬱さはない。
伊豆半島は熱海から、東海岸沿いには伊東、川奈、伊豆熱川、伊豆高原、下田とどの町を
とっても全国に知られた町々である。同じ半島県でも石川県の町とは大違いだった。
伊豆長岡から修善寺、湯ヶ島、湯ケ野と踊子たちが通ったであろう中伊豆の旅は以前にも
三度ほど経験したことがある。
今回、伊豆へまた来ようと思ったのはこの暖かさのせいかもしれない。

「生国は山城の者にて姓は源氏伊東彦左衛門祐久と称し浪人なり、実は源家譜代の
臣伊東祐親の後裔にして故あって浪人となり代々山城の国に居住。
天文年中当国へ転任し河北郡戸室山の麓田原村中山邊に所司となり罷在、その後
金澤南町へ居を移し天正二年五月一五日行年七十八歳にして病死仕候。」
と記されている。
天正二年は西暦1574年である。
そこで、令和5年1月静岡県伊東市へ出張し伊東祐親について調べてみる事にした。
金沢を朝早くに発ち、米原を経由して熱海に着いた。伊豆急下田方面行「踊子号」に乗り換え、
伊東市には午後2時頃に到着することができた。
伊東市は海抜3メートル位で相模灘に面した海沿いの町である。遠くには、伊豆大島も茫洋として
見ることができる。あくまでも太陽はさんさんとふりそそぎ南国の趣である。
ハーフコートで薄着をして行ったが、それでも暑さを感じるくらいだ。
伊東市役所は小高い山の上にある。駅から少し歩いて東海館という地元の施設を見学した。
ここは伊東で活躍した偉人達を紹介している旅館である。
ここはそそくさと見学し、市役所の隣にある伊東祐親の騎馬像を目指した。
伊東駅から歩いて30分くらいかかった。山登りの感じで大変だった。
多分津波の影響などを考慮して高台に市役所を作らざるをえなかったものと思われる。
伊東祐親は1180年頃活躍した武将で、伊東の豪族であった。娘たちを有力御家人達に
嫁がせ閨閥を作っている。しかし、もともとは親平家で頼朝達源氏とはそりが合わなかった。
平家に追放され流人の頼朝の世話をまかされたのだが、逆に深く入り込まれて閨閥を乗っ取られた
ようである。したがって、鎌倉殿の13人にも入れなかった。
鎌倉幕府が成立してからは、各地の負け戦で子孫は落ち武者となって方々を流浪した。
北陸の戦いでも敗れた。なかには、尾張伊東氏、備中岡田の伊東長実となった武将もいたが、
多くは当家の先祖のように町人となり市井に埋没した。
伊東市役所から東小学校のフェンス沿いにしばらく歩いて行くと、伊東祐親の墓を探し
あてることができた。民家と民家に挟まれた十坪位のところにひっそりと建っていた。
しかし、今の天皇陛下が皇太子殿下浩宮様のころ訪れた碑があるのにはびっくりした。
気候はあくまでも温暖で日が当たると、幸せを感じるくらいである。
北陸とは大違いだ。墓所にも陰鬱さはない。
伊豆半島は熱海から、東海岸沿いには伊東、川奈、伊豆熱川、伊豆高原、下田とどの町を
とっても全国に知られた町々である。同じ半島県でも石川県の町とは大違いだった。
伊豆長岡から修善寺、湯ヶ島、湯ケ野と踊子たちが通ったであろう中伊豆の旅は以前にも
三度ほど経験したことがある。
今回、伊豆へまた来ようと思ったのはこの暖かさのせいかもしれない。
