中屋彦十郎薬局のブログ薬日記

漢方・生薬の専門店は中屋彦十郎薬局

伊東市を訪ねた

代々伝えられてきた中屋家の由緒帳を見てみると、
「生国は山城の者にて姓は源氏伊東彦左衛門祐久と称し浪人なり、実は源家譜代の
臣伊東祐親の後裔にして故あって浪人となり代々山城の国に居住。
天文年中当国へ転任し河北郡戸室山の麓田原村中山邊に所司となり罷在、その後
金澤南町へ居を移し天正二年五月一五日行年七十八歳にして病死仕候。」
と記されている。
天正二年は西暦1574年である。
そこで、令和5年1月静岡県伊東市へ出張し伊東祐親について調べてみる事にした。
金沢を朝早くに発ち、米原を経由して熱海に着いた。伊豆急下田方面行「踊子号」に乗り換え、
伊東市には午後2時頃に到着することができた。
伊東市は海抜3メートル位で相模灘に面した海沿いの町である。遠くには、伊豆大島も茫洋として
見ることができる。あくまでも太陽はさんさんとふりそそぎ南国の趣である。
ハーフコートで薄着をして行ったが、それでも暑さを感じるくらいだ。
伊東市役所は小高い山の上にある。駅から少し歩いて東海館という地元の施設を見学した。
ここは伊東で活躍した偉人達を紹介している旅館である。
ここはそそくさと見学し、市役所の隣にある伊東祐親の騎馬像を目指した。
伊東駅から歩いて30分くらいかかった。山登りの感じで大変だった。
多分津波の影響などを考慮して高台に市役所を作らざるをえなかったものと思われる。
伊東祐親は1180年頃活躍した武将で、伊東の豪族であった。娘たちを有力御家人達に
嫁がせ閨閥を作っている。しかし、もともとは親平家で頼朝達源氏とはそりが合わなかった。
平家に追放され流人の頼朝の世話をまかされたのだが、逆に深く入り込まれて閨閥を乗っ取られた
ようである。したがって、鎌倉殿の13人にも入れなかった。
鎌倉幕府が成立してからは、各地の負け戦で子孫は落ち武者となって方々を流浪した。
北陸の戦いでも敗れた。なかには、尾張伊東氏、備中岡田の伊東長実となった武将もいたが、
多くは当家の先祖のように町人となり市井に埋没した。
伊東市役所から東小学校のフェンス沿いにしばらく歩いて行くと、伊東祐親の墓を探し
あてることができた。民家と民家に挟まれた十坪位のところにひっそりと建っていた。
しかし、今の天皇陛下が皇太子殿下浩宮様のころ訪れた碑があるのにはびっくりした。
気候はあくまでも温暖で日が当たると、幸せを感じるくらいである。
北陸とは大違いだ。墓所にも陰鬱さはない。
伊豆半島は熱海から、東海岸沿いには伊東、川奈、伊豆熱川、伊豆高原、下田とどの町を
とっても全国に知られた町々である。同じ半島県でも石川県の町とは大違いだった。
伊豆長岡から修善寺、湯ヶ島、湯ケ野と踊子たちが通ったであろう中伊豆の旅は以前にも
三度ほど経験したことがある。
今回、伊豆へまた来ようと思ったのはこの暖かさのせいかもしれない。

P1010413

大学都市を目指そう

地元の大学を卒業し、仕事や生活も金沢でしている。
こんな人達は人一倍ふるさと愛や自慢が強い。県外人が聞くと、もう結構という具合である。
金沢市は現在、人口が46万人。私達の若いころは30万人だから、余り発展してきた都市ではない。戦災や震災、災害が少なかったせいで、江戸時代の区割りを拡幅して町割りがなされている。
昔からの街並みや建物も多く残っている。加賀藩と言って前田家100万石の城下町だった。能楽や茶道、華道、その他の習い事が盛んに行われている。
昭和30年代は全国都市規模で20位だったが、今は35位となっている。相対的には下落したといってもいいだろう。
新幹線が開通する前は取り残された町という印象だった、
都市計画を実行するにしても、過去の街並みが邪魔になって抜本的なことができない。
空地ができると、そこに近代的なハコ物を作ったりしているが、都市のあるべき姿を追求していないので、ボコンボコンと立てているので一貫性がない。
それが、逆に失敗を強く印象づけている。特に、バブル頃の感覚で県庁、合同庁舎、工場などを郊外に移転して、ドーナツの輪を作ったが中心部が空洞化してしまい、街に活気がなく、中心部は片町(中心部の町名)村と言われるほどになってしまった。バブルがはじけ人口減少が進んだ結果、まちなかは急速に廃れていった。
旧県庁跡に残されている建物などは類似の建造物が全国各地にあり、保存性はない。ここに、賑わいや集客のある県立図書館を移転すべきだった。金沢大学工学部跡地に持っていったのも大失敗である。合同庁舎を新神田に建設して、都市問題の専門家から問題外と言われたのを、時間が経ったせいで忘れたのか。また、失敗してしまった。私は以前から工学部跡地には医療センター(旧国立病院)を移転すべきと主張していた。もともと、医療センターは加賀藩家老奥村家の屋敷跡にある。ここには家老屋敷を復元すべきではなかったのか。
城跡や兼六園は保存されており、隣接して家老屋敷も建設すれは歴史性からいっても整然としてくる。
戦前、金沢市は軍都として、戦後は学術文化都市として発展してきた歴史がある。私達が体験した学生生活は香林坊や片町の歓楽街に近く、喧噪と雑踏、映画館あり、多種多様な飲食店が雑然と並び、神社周辺の香具師の店、妖しげな催事、猥雑性、人込み、雑然性、機能性や華やかさが入り混じって街それ自体が魅力的だった。毎日が楽しく超然主義も生まれた。
今の金沢のまちなかに学術文化の香りも都市の魅力もない、あるのは美術、工芸などの職人文化である。
金沢大学も郊外へ移転させ、ドーナツの輪にしてしまった。
最近では金沢市への年間観光客数は1,000万人を超え、幹線道路沿いにはホテルが
立ち並びまさに宿場町の様相を呈してきた。新幹線が開通すればストロー現象で東京に
吸い寄せられ金沢は衰退してしまうと言われたが、結果は逆になってしまった。
まちなかの居酒屋もふらっと入ると客で一杯である。馴染みの店主は「予約してありますか」
という。金沢にはふらっとバスが走っている。「ふらっと寄るのは金沢の文化だ」と言い返す。
金沢城内には菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓と復元された。鼠多門橋、鼠多門櫓、玉泉院丸庭園も再現された。河北門をくぐれば教養部校舎があつた新丸広場を望むことができる。変わらないのは天守閣跡の植物園と三十間長屋のみだろうか。
最近の金沢大学の応募者を見ると何かしら定員割れに近い状態が感じられるが、これから先、学生数の減少の傾向のなかでどうなるのか。余計なことを心配してしまった。
金沢のまちなかには金沢城公園、兼六園があり、他に21世紀美術館、県立美術館、県立歴史博物館、国立工芸館、中村記念美術館、鈴木大拙館など文化施設が集積している。
県庁跡地に新神田に移転させた合同庁舎と駅西合同庁舎を呼び寄せ、金沢の霞が関を造成
するとういうのはどうだろう。合同庁舎が三棟並び賑やかさが復活するのではないか。
金沢駅からも近いアクセスとあいまってこれらは金沢市のランドマークとなり得る。
それと同時に、最後に残された空前絶後の企画がある。
歴史性から言っても、金沢市はやはり学術文化都市をめざすべきではないか。
それには、金沢駅の真ん前、金沢駅前にある空地、都ホテルの跡に大学を建設する。
ここに、高層ビルを建設し金沢大学教養部を移転する。
いわゆる大学町の建設を金沢市は目指すべきではないだろうか。
あの土地はそれにふさわしい場所である。
新幹線沿線から学生を集めることができる金沢駅前にある空地、都ホテルの跡は適地でないか。大宮、長野、富山、福井地区からは二時間以内に着く便利さである。
金沢駅を降りれば目の前に大学がある。圧倒的な迫力で迫ってくる。
学生達にとっても自慢のできる大学になり、誇らしい気持ちになるだろう。
これこそ、金沢の都市格を高める最も適切な方法ではないだろうか。東京でもない京都でもない金沢ならではの街造りができる最後のチャンスかもしれない。周辺は買物にも便利であり、近江町にも近い。映画館あり、飲食店あり、それなりの歓楽性もある。受験生や学生にも人気が高まり、倍率も急上昇するかもしれない。
専門課程に入れば、じっくりと山の上で勉強すればいい。
新幹線金沢駅の目の前にある大学。大学も都市の盛衰とは無縁とはいえないのではないか。
大学こそ金沢市の都市格を高め、かつ最後に残された最大の目玉施設といえるのではないか。一方、金沢大学にとっても今のままで推移すれば学生の定員割れが続き、縮小するか
統合、合併の道を嫌でも選択せざるを得ない状況となってくるだろう。
仮に、合併という状況になっても金沢駅前に教養部があればイニシアチブを取れるかもしれない。
この課題は石川県、金沢市、金沢大学の三者が議論し協力しなければ解決つかないかもしれない。口火をきるのは金沢大学ではないだろうか。
そんなことを考える今日この頃である。
P1010380

引札に見る加賀藩の秘薬

かっては引札(ひきふだ)といって木版すりで印刷されたチラシがあった。
この引札の中で明治15年に制作されたものが当店に残っている。
中国では今から5,000年前神農氏が現れ、1日に72の毒にあたって苦しみ、
薬をつくったと伝えられている。
その後、紀元500年頃、陶弘景は神農の薬をあつめて「本草経集注」を著した。
その後、中国の李時珍は1579年「本草綱目」 52巻を完成させた。この本草綱目は
日本の薬学の原典となった。加賀藩ではこの本草綱目の研究はされていた。
特に五代綱紀公は歴代の藩主のなかでもとりわけ熱心で、本草学者を加賀藩に招き研究
させるとともに、本草に関する書物を書かせた。
一方、全国に薬の処方を探索させるとともに、蒐集し、調査、研究を行い、
場合によっては薬草の栽培を行い、治療薬の試験製造を行った。
招かれた学者の一人稲生若水は加賀の本草学の基礎を築いたと言われている。
彼は藩内の和薬の探索はもちろん、数多くの秘薬、薬方を全国から集め何かいい薬はないかと
研究を重ねた。綱紀公はまた、前田家に秘蔵し門外不出だった薬を藩内の薬舗である
福久屋、宮竹屋、中屋に命じ、製造させた。
それが「紫雪」「烏犀円」「耆婆万病円」なのである。
製造は厳密をきわめ、藩医堀部養叔に監督させ作らせたと伝えられている。
その当時、薬舗では黄連、黄柏、熊胆などを取り扱うかたわら諸国の売薬も取り扱い、
それぞれ藩内の各店では自慢の自家製剤を持ち競い合って商いをしていたといわれている。
当時、藩内には200軒位の薬舗があり一軒あたり3〜4種類の薬を作っていたとしても
600〜800種の薬があることになり、その他、諸国の売薬、薬種を合わせると
一軒あたり扱う薬の数は2000〜3000アイテムにも達しただろうと推測される。
又、綱紀公は稲生若水に命じ、本草学書である「庶物類纂」1000巻を編集させた。
そのほか「百工比照」では百般の工芸の蒐集も行われている。
加越能三州の主である綱紀公は藩主であると同時にすぐれた科学者でもあったようだ。
1724年82歳で公は没するが、公が亡くなってから明らかになったのであるが、
一挙に藩財政が困窮してきたといわれるほどだった。
この時期、元禄時代をはさんでの数十年間は江戸時代でも最も豊かな時代だった。
百万石の財を傾けて行われた数々の文化的、科学的な事績は人々をして
「加賀は天下の書府」と言わしめたほどである。
金沢では1月から2月にかけてよく雪が降る。
来る日も来る日も繰り返し降ってくる雪の中で人々は春の訪れを待ち焦がれる。
空は鉛色で日本海からの強い風が吹いてくる。そんな雪と風がやんで、
夕焼けが近くの雪の降り積もった山々を照らす事がある。
空は茜色に、山肌は紫色にうすく染まったりする。
そんな季節を待って「紫雪」は作られる。
1月の寒に入るのを待って準備をしてゆく。もともとこの処方は前田家五代藩主綱紀公
(1635〜1724年)が藩内の薬種商に製造を命じる形で作らせたものである。
当時は藩の典医の監督のもとで製造が行われた。
先ず、大なべに水を7分目位張り、下から火力の強い炭火をおこし煮沸させる。
あらかじめ用意しておいた黄金100両をお湯にいれる。
石薬を煎じ、動物薬煎じる。
出来上がった紫雪の中間品は木製の器に入れ目張りをして、一晩保管する。
翌朝、この紫雪の元を取り出し、加工し完成品とする
あの雪山に輝く夕日を思い出しながら、朱をいれていく。
仕上げた紫雪はさらに篩いにかけ、最後の仕上げにかかる。
暖房はされない。気温は0℃位でしょう。
この「寒」の季節をはずれて製造すると製品は固まって、紫雪にならない。
さらさらと紫の雪のような薬、それが「紫雪」なのである。

sum_image1

金沢市能楽美術館へ行ってきた

P1010379

















能楽美術館ってご存じですか
金沢市には能楽美術館がある。多分全国でもこの手の美術館がある県は
ないのではないか。
その施設は当薬舗から兼六園に向かって歩いていくと、約5分位のところ、
21世紀美術館の手前にある。
「秘すれば花」と言われる能の世界。室町時代に世阿弥は世話物の猿楽を
発展させ、武家社会に深く入り込んで、夢幻能から幽玄の芸能として芸術性
を高めた。古典文学を題材にして高い格調性を伴っており、各派が競合する
中で幕末まで広く武士の教養としてたしなまれてきた。
金沢では宝生流が主流となり加賀宝生とも呼ばれるようになった。
加賀藩前田家が推奨したこともあって、武家の間では必修の科目として、
町人の間でも教養を高める習い事として広く定着していった。
一時は「謡がふる街」といわれるほど、一般人にも広く伝播されていた。
私も学生時代から社会人にかけて6年間位習ったことがある、当時、京都
での発表会にまで参加したくらいだからそれなりに練習していたに違いない。
面白いというよりは金沢人の教養かなというぐらいに考えていた。
今回、美術館を訪ねてみようと思ったのは加賀宝生のなかでひと際輝く
中野家に関する資料展示が行われているということを耳にしたからである。
明治になってからも政財界や地元金沢の経済人の間でも謡は広まり、
紳士がたしなむ能楽として発展していったのである。実業家のなかには
能装束や能面などを自ら所蔵し、奥義を極めようとした人達も出てきた。
中野武営や長男岩太らはその一角をなした人で、金沢の能楽文化にも
甚大な功績をし、大きな足跡を残したといっても過言ではない。
一時期にはあの美貌の歌人・柳原白蓮(NHKの朝ドラにも取り上げられた)
が親しく身を寄せていたこともあるくらいに隆盛を極めた家柄でもある。
この中野家の所蔵品の展示会が令和4年11月13日(日)まで能楽美術館
において開催されている。
ぜひ、この機会に数々の貴重な展示品を鑑賞してもらいたいものである。
これは余談であるが、市川崑監督・映画「天河伝説殺人事件」はあの吉野
の天川村を舞台にして歴史と伝統ある能楽一家の頂点に立つ家元をめぐる
激しい争いが主軸。有名女優岸恵子の演技、俳優榎木孝明の名探偵や活躍
と相まって秀作のできとなっている。
薬草トリカブトを煎じ詰めて、能面の裏にそれを塗り、その塗りつけられた
トリカブトエキスを能役者が舐めて死に至るというストーリーである。
トリカブトはアコニチン・アルカロイドが主成分で生薬名を附子(ぶし)
といい、昔は塩漬けにして塩附子(えんぶし)、焙じて炮附子
(ほうぶし)として利用された。現在は加工ブシ末として販売もされている
が現植物のヤマトリカブトは毒草である。

「岬めぐり」の旅に出た

「岬めぐり」をしようと思い立ったのは遠くに過ぎ去った青年時代を懐かしんだせいかも
しれない。全国各地にその適地は散在しているが、やはり思い浮かぶのは三浦半島の城ヶ島
だった。しとしとと降る利休鼠の雨はそれにふさわしいに違いない。
山本コウタローらが歌うこの詞は恋人同士が行く予定だった「岬めぐり」を自分一人で
行くことになり悲しみを深く胸にしまい込み、新たに飛躍しようという力強い歌である。
多分この歌の影響があるのかもしれない。
金沢を朝早くの新幹線に乗り、目的地を目指す、東京駅から中央線に乗り換え、新宿駅で
小田急ロマンスカーに乗車し箱根湯本へ向かい、そこで宿をとることにした。
さして深い考えもなく箱根登山を思い立ち、箱根登山電車、登山ケーブル、ロープウエイを乗り継いで大涌谷までは辿りつくことができた。しかし、時間の経過とともに霧がかかってきて何も見えなくなってきたので、今回はここまでで断念して次回に期待することとした。箱根あたりは都会に近いせいか、開発が進み、便利になっている。大勢の観光客がおしよせ賑やかで、コロナ禍を感じさせないほど人が多い。街へ出てみようと思ったが感染が頭をよぎり止めることにした。こんなときだから、もちろん露天風呂付の部屋を予約しておいた。
箱根の旅館は時代を先取りしていて、加賀温泉郷とは違い個人客向けに内装は改造されているようだった。部屋の広さも個人客用になっており、食事処も間仕切りが設えられ時期に合った造りになっている。これらの設備のおかげでゆっくりと寛ぐことができた。
翌日は一番早い時間に食事をとり、予定の三浦海岸を目指し、小田原を経由して京急三崎口駅に着く。簡単な食事を済ませ城ヶ島行きのバスを待つことにした。
バスの中は名物のマグロを食べに行く人たちが一杯でウルサイほどの賑やかさだ。
私は城ヶ島大橋のたもとにある北原白秋の「城ヶ島の雨」の歌碑を訪ねるのが目的だった。
バスを下りてあっちこっち訪ねて探しあてることができた。城ヶ島の磯は中学生の頃から来たかった場所である。
案の定、その歌碑は訪ねる人もいないようで悄然と建っていた。
「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる・・・・」と刻まれている。
その日は10月にしては汗ばむほどの天気で、空は真っ青に晴れ渡っていてまだ夏かと
感じるほどである。
白秋は小田原近辺には一番長く住んでいたらしい。近くにある白秋記念館を訪ねたが
黴臭いすえた匂いが充満していて「ごゆつくりご覧ください」という案内人の声も
何かしら物憂げで、全体がうら寂しいものに感じられた。
実は福岡県柳川市を旅して、白秋生家に隣接した記念館も訪ねたことがある。柳川は掘割が全市に張り巡らされた水郷の街である。福永武彦の小説「廃市」では主人公の大学生が卒論作成のために静かな環境のこの町を訪れる。たまたま遭遇した下宿先の人達の人生模様を題材にして、その家の主人公が愛人とともに心中するという内容の小説である。美しい水郷の景色を背景にして叙情的に描かれている。学生は下宿先の人達とからみあうようでいて、何もなかったかのように一人この町を後にする。柳川には水郷の美しさとすべてを忘れさせるような静寂感がある。
城ヶ島「岬めぐり」の帰りのバスはマグロを食べて満足した幸せそうな人たちでやかましく、この辺りにしかいないような轟音をあげて追い越してゆく車に私は一層の疎外感を覚えた。
白秋が金沢で二,三年も生活していたなら、立派な記念館が造られていて、文豪にふさわしい待遇をうけただろうにと考えた。金沢はそんな事をする町である。

P1010300














陀羅尼助丸の里を訪ねた

P1010376 (2)

陀羅尼助(ダラニスケ)という薬を製造したり、販売したりしている店舗は各地にあり、
それなりに繁盛しているのは何故なのか昔から不思議に思っていた。
今回お盆休みを利用して各地の陀羅尼助を訪ねてみた。金沢を出るときは晴れていて熱中症の心配
をしなければならないような天気だった。大阪難波を経由して二時間程で南海電車極楽橋に着き、
立派なケーブルに乗って山頂の高野山に到着した。現地ではバスに乗って街中を目指す。
方々を探してようやく「大師陀羅尼助製薬」の本舗を探しあてることができた。下界と違いここでは
それほど暑さは感じない、さすが海抜千メートルである。この薬の成分はオウバク、リュウタン、アオキの三種類で極めて単純な処方である。真言密教の真実を求め、加持祈祷を重視した修行僧が携帯して病気に備えた。
昔は竹皮に包み、護符状に仕上げたものだが今はもうない。現在は乾燥エキスにした丸薬状のものだった。これを本舗の事務長(社長かな)が丁寧に説明してくれた。私などとてもこんな風にはできない。老舗の面影はないが、余裕を感じさせる風貌であった。その日は大阪駅を経由して京都に宿泊した。翌日は近鉄電車に乗り吉野を目指した。吉野方面にも陀羅尼助の製造や販売している店がある。
橿原神宮前で乗り換え、さらに下市口駅で下車しバスにて一時間ほど乗車し天川村洞川(どろかわ)に着いた。
演歌歌手・多岐川舞子が歌う「天川しぐれ」で知られる天川村には大峰山陀羅尼助製薬の陀羅尼助丸を販売している店舗が街道沿いに十五軒ほどある、その店を一軒づつ訪ねてみた。
この大峰山陀羅尼助丸の成分はオウバク、ガジュツ、ゲンノショウコである。販売店はどの店も作りは立派で次から次へと客が入っていく。ここは洞川温泉という温泉地であるが土産物といえば陀羅尼助丸なのかもしれない。
天気は霖雨というのか雨が降ったり止んだりでうっとうしい日だった。天川神社を訪ねてみようと思い観光案内所で聞くと別の字(アザ)でタクシーで往復すると一万円ほどかかるというのであきらめることにした。洞川温泉の修験者商店街を抜け女人結界を経由して大峰山を登山することもできるが体力と時間の関係でこれも断念した。
その日は下市口市に戻り川上村に宿泊することにした。ここには湯盛温泉・杉の湯というおすすめできるホテルがある。
翌日は近鉄に乗車し吉野駅で下車、オンボロなケーブルに乗り頂上を目指す。
山の上には何十軒も店屋が立ち並び桜の頃や紅葉の時期は観光客で一杯になるというが今は人は少ない。その店屋の並びに藤井陀羅尼助丸本舗がある。訪ねた日はあいにくと休業日だった。
この製剤は全国に卸販売されている。
吉野からも修験道の山、大峰山を目指すことができる。
「親の言うこと聞くか!」
と修験者に諭され鍛えられることで有名な大峰山である。
今度の旅はこれくらいにして帰路につくことにした。この日も散々雨にたたられ、天気には恵まれなかった。

「冬虫夏草(とうちゅうかそう)」展へ行ってきた

image313[1]「冬虫夏草」展をやっているというので訪ねてみた。地方のしかも金沢市で開催されるなどというのは非常に珍しい。まずこの展示会を開催されることを企画された方々に敬意を表したい。
しかも、石川県の企画というので二度びっくりである。大体が県というのは国の機関の提灯持ちやごますり案内人という印象が強いのに、超然主義の精神は旧制四高を思い起こし極めて楽しい。
私が訪れた日は夏の日差しが残る暑い時だった。金沢駅東口で七番乗り場、北陸大学太陽が丘行きに乗車した。バスは金沢市内をゆっくりと進み、湯涌街道からそれて空に登るような坂道を進んで、太陽が丘キャンパス口に着いた。バスを降り、もと来た道を戻りながら坂を下っていくと中途に自然史資料館という小さな看板が左側に立っている。そこを曲がるとすぐに資料館に到着することができた。
かなり年月の経った建物だったが立派なものである。企画展は二階の大広間を利用したもので、展示資料や説明も専門的でおざなりのものではなかった。大学の研究者が観覧しても恥ずかしいものではない。
冬虫夏草(とうちゅうかそう)は中国の四川、雲南、青海、貴州、西蔵省に主産し、四川省が産量最大である。
子嚢菌亜門、核菌綱、バッカクキン目、バッカクキン科のフユムシナツクサ (シナトウチュウカソウ) が産生する子座 (子嚢胞子も含む) 、およびその寄生である鱗翅目あるいは鞘翅目の昆虫、 とくにコウモリガ科のHepialusarmoricanus Ober.の幼虫の虫体 (体内に菌核を形成する)の合体した乾燥品。
幼虫の体に入った菌は菌糸を伸ばして成長し、やがて体内を完全に占領し、さらに長い柄を出してキノコが発生する。幼虫の長さは三〜八センチ、柄の部分は四〜十センチある。
頭部がやや膨らんでいる。市販されている生薬は全長が10センチ前後、黄褐色である。
冬には虫の姿をし、夏に変じて草になると信じられていたため冬虫夏草の名があり、古来ウドンゲとともに吉祥のしるしとして知られていた。
現在は昆虫寄生菌を総称して冬虫夏草といっている。
蝉の幼虫に寄生したものを特に金蝉花といっている。成分としてはコルジセピン、コルジセプス酸、ビタミンB12などが含まれ漢方ではよく使用される。
疲労回復や免疫力の回復に効果があるというので珍重されている。
コウモリガ科だけでなく、カメムシ、バッタ、ハチ、サナギタケなどに寄生した極めて珍しい冬虫夏草も展示されている。驚いたことに当店が販売したであろう冬虫夏草の一種「北虫草」も展示されていた。29年11月26日まで開催されている、しかも、嬉しいことに入場無料である。ぜひ訪ねてみてもらいたいものである。
資料館の外に出ると激しい日差しが体に降り注いだが、何かしら心地良い気分で、今日一日が充実したものになった気がして大変満足だった。
P1000973


天才作家・島田清次郎の文学碑を訪ねた

島田清次郎の文学碑を訪ねたのは未だ寒さが残る4月の晴れた日だった。
青空を筆で引いたような雲が細くかかっていた。
その碑は手取川の河口近くの美川大橋のたもとにひっそりと設えられていた。
当地のライオンズクラブの有志が建立したものらしい。正確には島田清次郎の生誕地の碑ということである。石川県美川町(現在は白山市)の南町にあるというので、美川へ着いて田圃仕事のお百姓に尋ねてもわからない、あっちこっち商店を回って「島田清次郎の記念館か文学碑はありませんか」と聞いてまわったが知っている人はおらず、「石川県発祥の記念館」なら知っているか、この中にでもないかと思って尋ねたら高い入館料であほらしくて入る気もせず、職員に聞いてみたがこの館内のことしか知らないというつれない返事だった。
更に南町へ戻ると「島清」という魚屋があり、名前が同じなのでひょっとしてと考え聞いてみると丁寧に教えてくれた。
後になって気付いたことだが清次郎の生誕記念碑はこの石川県ルーツ館のすぐ後ろにあった。
かって、美川の町長だった竹内信孝氏が音頭をとって「島清恋愛文学賞」を設立された。
何回か回を重ね多くの文学賞の受賞者を生んで全国的にも有名になった。
竹内氏は文学賞の設置にあたり、川筋者の気概を示すといっていたのが今でも懐かしく思いだされる。この美川町の会館で私は高校生の頃に見た映画「地上」を見ることができた。
当時既に主演の川口浩さんは亡くなっていたが彼の妻であり主演女優の野添ひとみさんの講演も聞くことができた。夫川口浩さんを癌でなくし、癌撲滅のため全国を行脚しているという話だったが、奇しくも彼女も癌で亡くなった。人生の無常を感じざるを得ない。
全国各地の文学碑は訪ね歩いたが、大正時代に50万部の大ベストセラーになった小説「地上」を書いた天才作家の碑にしてはうら寂しいものだった。
川面を流れるひゅうひゅうという風の音と浜辺に打ち寄せる白波が一層悲しさを増した。世の中に挑戦し続けた川筋もん「島田清次郎」の心意気にいずれは日の当たる時が来てほしいと念じつつその場を後にした。
人ずてに、文学碑は美川の墓地公園にもあるというので後日さらに訪ねてみた。
この文学碑も探すのに苦労した。設置場所は今一だったがなかなか立派なものだった。これだけの観光資源を作っておきながら町民に周知していないのはいかがなものだろうか。
島清恋愛文学賞は現在は金沢学院大学が受け継いで引き続き管理運営している。これらを考えると美川町は文学の香り高い金沢市との合併を目指すべきではなかったのか。
帰りに当地の料亭へ寄って名物の「いさざ料理」を食べようと訪ねてみたが、「今はやっていません」という返事で「他に食べさせるところはないか」と尋ねても「ないでしょう」という気のない返答でこれにも参ってしまった。
帰り道に考えた。美川町は町村合併で格を落とした気がしたが、似合いの合併でそれでよかったかなあという考えが頭をよぎった。
これは蛇足だが、島田清次郎の記念館は金沢市の西茶屋街の中にある。

P1000754島田清次郎の文学碑

P1000751島田清次郎生誕の地

精力剤とは

男性も女性も平均して40歳代後半から更年期に入りますが、男性の性機能が衰える
一方なのに反し、女性は閉経した後、逆に性欲はたかまるのです。
このことが深刻な問題を引き起こしているのです。充分に勃起しないのが「勃起不全」です。
最初は勃起するのですが途中で萎えてしまうのが「中途の陰萎」つまり中折れです。
中折れは最近、中高年といわず若者にも急激にふえてきています。いろいろな原因が
考えられますが、社会的ストレスが大きな原因になっているのではないでしょうか。
それでは、このような症状を改善するのにどんな薬があるのでしょうか、
大きく分けて三っつに分けられます。ホルモン系、勃起薬系、漢方系の種類です。
これらについて説明しますと、先ずホルモン系ですが、これは年齢とともに低下していく
ホルモンを外部から補って精力を復活させる方法です。男性用と女性用があり、
男性ホルモンの場合は主にメチルテステステロンという科学物質がはいっています、
この男性ホルモンによって勃起力が強化されたり、早漏を防ぐ事ができるのです。
もちろんこの薬は医薬品です。厚生労働省が精力の減退に効果があると認めた医薬品なのです。
女性ホルモン剤については卵胞ホルモン不全による不感症や婦人更年期障害用として
、卵胞ホルモン (エチニルエストラジオール) を外部から補います。
つぎに勃起薬系ですが、これは塩酸ヨヒンビンという化学物質のほかに硝酸ストリキニーネ
を加えた製剤があります。この塩酸ヨヒンビンはバイアグラと同じように中枢神経に作用し
インポテンツに効果があると認められている医薬品です。これを服用すると、中枢神経
(勃起中枢) を刺激して興奮状態にさせるだけではなく、血管を拡張してペニスへの
血液の流入を促進して、勃起力や射精力をたかめてくれるのです。
わりと即効性があり、一時間で効果が表れたりします。反射的に ペニスの勃起をうながすのです。
この塩酸ヨヒンビン製剤は劇薬に指定されていますので、購入する時 は住所、氏名など記入する
ことが必要ですがこれさえ記入すれば、誰でも購入できます。
劇薬に指定されているということはそれだけ効き目がいいということなのです。
金蛇精

精力剤とは

薬局で売られている精力剤についてお話ししてみたいと思います。
主に、男性向けですが、女性用の薬もありますので併せて解説したいと思います。
あくまでも、薬学的な説明になります。
みなさん、精力剤というと精のつく薬、強くなる薬と考えがちですがそういう方は当店には、
ほとんどおいでになりません。深刻で暗い顔つきで入ってこられた方、そういう方が精力剤のお客さんです。
私はお話しをお聞きする前にすぐに見当がつきます。
未だ老け込みたくないというお客さんや妻が若いのでという方がほとんどです。
このように考えてみますと、日本人はまじめに精力剤を利用しているといえるのではないでしょうか。
さて、女性の更年期といえば「卵巣機能が消失しはじめ、消失する時期」と定義されています。
つまり生理がなくなりかけ、ついになくなってしまう期間を更年期といっているわけですが、
この時期に入りますと卵巣の機能が低下するために、
女性ホルモンの分泌が著しく減少しそれまでのホルモンのバランスがくずれてしまいます。
その結果、頭痛やめまい、動悸、腰痛、手足のしびれ、不眠などの症状がでてきて、
これを更年期障害と呼んでいるのです。
これと同じように男性にも更年期があることが医学的にも確認されています。
視力の低下や腰痛、手足のしびれなど女性と共通する症状もありますが、
男性の場合、特徴的なのは男性ホルモンを分泌する機能の低下があげられます。
具体的にもうしあげますと、男性ホルモンを分泌する機能をもっている睾丸の働きが年とともに弱くなっていくからなのです。
血液中を流れているテステステロンという男性ホルモンをはかったところ25歳をピークにして後は下降していくということなのです。
男性ホルモンの分泌が低下すれば、当然、セックスの際の勃起力や持続力は低下していきます。
さらに、性欲そのものが弱くなっていきセックス回数がすくなくなり、枯れてしまうのです。
金蛇精 
QRコード
QRコード
最新コメント
  • ライブドアブログ